村櫛町紹介

村櫛の歴史9

安政の大地震と村櫛村酒専売所(その1)    松下 康文

(写真1)万延元年創立の村櫛酒販売所
(写真1)万延元年創立の村櫛酒販売所
 村櫛町にある村櫛酒販売所(写真1)は、今から約150年前の万延元年(1860)に「村櫛村酒専売所」として創設され、現在も全国的にも珍しい町営酒屋として時々新聞記事になっている。この酒屋は安政の大地震により疲弊した村の経済を立て直すために村人が相談し知恵を出し合って作られたものだ。はじめに疲弊の元になった安政の大地震とはどのような地震だったのか、浜名湖周辺の村々にどのような被害をもたらしたのか、残されている資料により探り探ってみる。
 安政の大地震とは、安政年間(1854~1859)に全国各地で起きた地震の総称である。「別表1」は安政年間における自然災害(地震・高潮)を県史資料から抜粋したものである。

(別表1)安政年間における自然災害(地震・高潮)一覧
安政年間の地震・高潮 種類 発生月日
1 嘉永小田原地震(M6.7) 地震 嘉永6.2.2(1853.3.11)
2 近畿中部直下型地震(M7.3) 地震 嘉永7.6.15(1854.7.9)
3 安政東海地震(M8.4) 地震 嘉永7.11.4(1854.12.23)
4 安政南海地震(M8.4) 地震 嘉永7.11.5(1854.12.24)
5 4~5尺の高潮 高潮 安政2.6.1・4・19(1855.11.7)
6 風荒く7尺の高潮 高潮 安政2.7.15・26(1855.11.7)
7 風荒く8尺の高潮 高潮 安政2.8.20(1855.11.7)
8 安政東海地震の余震(M7.0~7.5) 地震 安政2.9.28(1855.11.7)
9 安政江戸地震(M6.9) 地震 安政2.10.2(1855.11.11)
10 安政駿河地震(M6.3) 地震 安政4.5.23(1857.7.14)
※高潮は浜名湖周辺のみを掲載、発生月日の( )は新暦年月日。
※静岡県史別編2、自然災害誌より作成

 嘉永7年(1853)から安政4年(1857)にかけてこの地方に数多くの地震と高潮(水害)に襲われた。その中で特に、嘉永7年(安政元年)11月4日、遠州灘で発生した「安政東海地震」は、南海・駿河トラフに沿うプレート境界の巨大地震で、最も震害の大きかった地域は、沼津から袋井にかけての沿岸一帯に及び、地震による津波の被害は房総半島から四国南岸までの広範囲に及んだ。この地震により御前崎は1~1.5メートル隆起し、反対に沼津や浜名湖奥の気賀では地盤の沈下があったという。
 続いて安政東海地震が起きた32時間後の5日、今度は南海道沖を震源とする「安政南海地震」が起きている。この地震の被害地域は中部から九州に及び、特に紀伊半島か甚大な被害を出した。ここでも、宝永地震(注1)の場合と同じく揺り返し(「大地震の時には必ず揺り返し現象がある」)が起こり、余震は40日間続いたという。さらに安政2年9月28日には、安政東海地震の最大の余震(注2)が起きている。
 安政東海地震の津波の実態を知る資料として、細江町の「沢木文書(注3)」では「村櫛辺りはことのほか高潮で、宇布見村では村中一軒も残らず汐水が入り、家作等残らず潰され、道具類や俵者まで流され、目もあてられね」と書いている。村櫛はもともと浜名湖に突き出た低い平らな土地なので、僅かな波の高さでも相当な被害を受けやすく安政地震の津波では3m位、対岸の宇布見村(雄踏町)は3m位であったという。
 次に、舘山寺町の「年代宝蔵記(注4)」には「安政2年8月20日、浜名湖岸の大澤領庄内地方で4月20日から7月にかけて4尺~7尺(2.3m)の高汐に襲われていたが、特に8月20日には高汐が8尺(2.6m)に達し、座敷の「かまち」半分くらいまで水に浸かり、大蔵、小屋等多数が流され、領主より弁当代として金50両が下され、村々の堤の長さにより分けた。風が強く、田畑は大違作で大根、 (かぶら) 等あしく、そばは種もなし」と高潮のこと、領主が領民にとった対策、農作物の被害の様子が書かれている。また、「新居の関所が流されたことや、新居の湊に停泊していた薩摩国の船から荷駄が村櫛、和田村、内山村に流れ着き、その荷駄を拾い取ったとして村人が罪人となった」等の記載もある。

 さらに、舞坂町に舞坂宿住人渡辺八郎平の「安政東海地震の津波に襲われた舞坂宿の図」が残されている。この図には、絵図上に「三方を海に囲まれた舞坂の宿に、地震による2丈(約9m)の津浪がきたので、氏神山と宝登山に宿中の人全員が避難して難を逃れた」旨が書かれている。
 安政東海地震後の浜名湖周辺は、地盤が沈下したため、湖水面が上昇して沿岸の集落や田畑は台風などによる小規模の高潮(注5)にも浸水されやすくなってしまった。このため安政東海地震から数年の後まで、浜名湖口付近で高潮による浸水が起きやすくなったということである。
 このように安政年間は度か重なる自然災害のため、田畑の流失・荒廃、農産物の不作等が続き村人の生活は困窮を極めたに違いない。
 次回では、村櫛村酒専売所がどのようにして創設され村の経済を立て直し、村民の気持ちをまとめたかを探る。

(注1) 吾宝永地震(M8.4)、宝永4年10月4日、紀伊半島熊野灘で発生した大地震。震源は紀伊・四国沖と遠州灘沖とされる。南海トラフに沿うプレート境界の地震で我が国最大級の地震の一つ。この地震で御前崎は1~2m隆起したとされる。浜名湖沿岸から新居、白須賀にかけて地震の被害より津波の被害の方がひどかった。(白須賀宿が元町から翌年高台に移転する。)
(注2) 安政地震最大の余震、M7.0~7.5で遠州灘を震源として、特に遠州海岸で被害があった。
(注3) 沢木文書、細江町片町の沢木家に伝わる文書で当時の有様が書かれている。細江町のあゆみ(完全復刻版・第六号)参照
(注4) 宝蔵記、遠江国敷知郡堀江村の新村松助が弘化4年(1847)から大正13年(1923)間の天候、物価、事件等を記したもの。
(注5) 高潮、台風などの強い低気圧の接近時に、平均的な海水面が緩やかに上昇してきて、居住地域や田畑に海水が進入する現象である。